ウルトラセブン
24話・北へ還れ!
国鉄(現・JR)野辺山駅・(旧)駅舎
2006年 北海道のフルハシ隊員の故郷にある国鉄・美幌別駅に見立てた ロケセットとして使用されたのが小海線の野辺山駅旧駅舎です。 当時は駅舎の右(清里方向)に改札が在りましたが 現在は1983年に新しくなり、逆方向に改札があります。 *駅舎の位置は、ほぼ同じ場所です。
野辺山の駅舎は変ってしまったのですが、隣の信濃川上駅や 佐久海ノ口駅の駅舎は、旧野辺山駅舎と同型(ほぼ似る)の物が 残っていると聞いたので、隣の信濃川上駅を撮影してみました。 *確かに基本の形と屋根までの高さが高いのが似ていて 国鉄時代のローカルな雰囲気がありました。
コチラが現在の野辺山駅の駅舎です。 駅の標高は1345.67mで JR最高と言う事もあり、綺麗になりすぎています(^^; 清里駅の間にJRの最高標高地点(1375m)があります。
長野県南佐久郡南牧村大字野辺山306
作中では美術さんが用意した日本国有鉄道 美幌別駅の看板に 何故か?標高まで書いてあります(^^; 作中では、入り口柱に木製の美幌別の看板と 駅舎の左窓がある方(白ぽい着物の人が行く)所に 白いブリキの縦型の看板が見られます。 *この看板は撮影後の美セン3ステージの奥で撮影された ひし美さんと古谷さんが、子供達と撮影した写真右側に見られます。
清里-野辺山間にあるJR最高標高地点の(1375m)碑。 本来は、旧道にある立派な物しかなかったのですが 観光用に立てられたそうです。図1●
長野県南佐久郡南牧村大字野辺山 野辺山駅から約2.3kmほど清里駅寄り
清里・野辺山ロケ 昔から絵画や写真、映画に使われる事はありましたが 特にメインロケ地に使用されたS34年の石原裕次郎の 映画男が爆発する(日活)の後には、多くの作品が ロケ地として清里、野辺山をロケに使用するようになり 観光でも、裕次郎が来た事で清里自体が有名になる程でした。 劇中で日本の牧場(農場)とアクションの組合わせが あまり画になると思って無かった映画人の意識も一変します。 ウルトラ1期には時代的にも、裕次郎の映画を意識した所が ありますから、憧れのロケ地だったようで 帰マンの主役が防衛隊以外に牧場で働く設定が、企画時には あった程で、作品的にはUFOロボグレンダイザーで 上原正三さんがデュークフリード・宇門大介の 宇宙科学研究所以外に居る普段の場所として設定しています。 高原へいらっしゃい(脚本・山田太一) 1976年に田宮二郎、2003年に佐藤浩市で、メインのホテルは 八ケ岳高原ヒュッテですが、ロケの主は野辺山でした。 ビーチボーイズ 設定は海の側なのですが(^^; Qちゃんの古巣の局のドラマでも 主役の反町隆史と竹野内豊が出会うシーンが小海線(キハ110)と 最高地点の踏み切りや野辺山近辺、山梨県立八ヶ岳牧場を ロケで使用しています。
作中は架空の場所ですが、ロケ的には野辺山の北から 最高標高地点の踏み切りまでを、キハ110とルノーの車が 競争?するシーンで小海線が協力して撮影しています。
|
ウルトラセブン
24話・北へ還れ!
境川鉄橋(小海線)
Pカード フルハシの乗る電車(気動車)が、八ヶ岳バックに渡る橋は 小海線境川鉄橋です。 橋は健在なのですが、撮影ポイントから 橋の間の木々の成長が凄く、今ではまったく見えません。図1● JR最高標高地点側のお店の方に聞くと 冬など葉が無い時期でも見えないそうで 地元が記事になった雑誌の切抜きを いろいろ見せてもらい、ポストカード(上画像)の撮影時期が S60年頃なのが解りましたので、1枚買いました♪
どれくらい見えないかと言うと、こんな感じです(^^; 気動車が来れば橋の音などから、あの辺か?と 解る程度で、カーナビやGPSに頼る以外に撮影ポイントを 確認するのは不可能です。図1●
緑の成長が激しいので、反対側の新141号に出来た 新大門川橋図1●から現・JRの橋を撮ってみた写真です。 柱は、当時の画面と同じ物なのが解りますが 向こう側の道は、まったく見えず・・・ 新大門川橋からも、少ししか見えるポイントが ありませんでした。
図1
撮影ポイントは清里・野辺山間の旧国道のゴルフ場脇で 清里の方が近いと思いますが、それなりの山なのと 元々標高が高いので、歩いて行く人は居ないかも しれませんが、旧道は荒れていて枝が突き出てる 箇所があるので、車やバイクの人も気をつけないと 危ないかもしれません。鉄橋●*新道141号
長野県南佐久郡南牧村大字野辺山 野辺山駅から約2.5kmほど清里駅寄り
奥多摩小河内ダムと、野辺山・清里の開拓
今は東京や山梨ですら教科書でも習わないようですが モスラ後も、特撮のロケ地で有名な小河内ダムが 東京の水道水確保の為に、建設される事になり 小河内村・丹波山村・小菅村がダムの底に沈むことに なったS13年。 その犠牲になった地から現在の清里や 野辺山の地に移り住んだ人が開拓に加わりました。
標高の高い地での作物との格闘を続け ポ-ル・ラッシュ博士がアメリカ・ケンタッキ-州での 知識を活かしてS13年に、今もある清泉寮を建て 清里農村センタ-を作る募金をアメリカに起してまで 標高高く寒い地域の酪農の方法を教えて 行ったのが認められて、S28年集約酪農地域に指定され 国の後押しを得て開拓が進み、S32年頃にやっと 電気が来たと言う荒野だった所です。 今では多くの人の努力で開拓で、観光地としても 清里の名前は、映画やドラマと共に広まりましたが 元奥多摩の人々の汗の染み込んだ地でもあります。
|