旧・国際放映撮影所 

光跡★ロケ地

東宝第2撮影所☆時代

      図1(東宝第2後期)

最初の東宝第2撮影所時代では、ハワイマレー沖海戦の有名な
真珠湾の特大オープンセットが組まれ(図1・上の場所)
作品の大ヒットと共に、円谷英二・特撮(特技)が、それ以前の
おもちゃの撮影とは違う映像効果に、一目置かれるように
なり、最初に英二さんが東宝で注目されるた仕事の場所でした。

特殊技術課が、制作や研究などをするはずの第2撮影所でしたが
戦争と、
東宝争議により分裂、東宝を離れ、別会社の
新東宝の撮影所になってしまいます。
その為に、東宝の仙川北側に大きなNO.8・9ステージや大プールが
与えられる事に繋がって行きます。

ハワイマレー沖海戦 S16年(原節子、藤田進 )円谷英二

新東宝・第一撮影所☆時代

  画1(旧門・西門)
新東宝第1撮影所時代の門       


       図2(新東宝前期)
 正面門  事務所 俳優控え所   広報所

 
  工作所  試写室  水中撮影プール

 美術  東宝オープン銀座オープンセット
*9のオープン前にハワイマレー沖海戦の真珠湾セットがあった。

オープンの建物は、白いのがビル系の都会で、紫が木造家屋
時代劇風な日本の建物が、主に建てられた場所でした。
オープンセットは、略ハリぼてなので撮影時期で変っています。
ビル系統は変化は少なかったようです。

  色の5つの大ステージは、時期で番号は変化していたり
建て替えなどがあるので、ステージ番号は省略します。

国際放映・撮影所☆時代

        図3(国際後期)

新東宝倒産後、上の土地はマンション下の西側も大学などになり
敷地も狭く、ほとんどのステージも建て直されています。
TVドラマなどに対応する小型なステージが多くなり
プレハブが点在していました。
撮影所東西の道も
舗装整備された為、撮影所敷地輪郭も変貌しています。


  画2(東門)
旧・国際放映撮影所‘80年代後半の門

図2が正門で車2台ほどの幅の門に、通行人用の小扉があり
道から斜めに狭ばるアプローチがありました。右側の表札は木で
国際放映株式会社と書かれていました。
Qちゃんも仕事でココは使った事は無いのですが、見学に行く度
国際のステージの廻りには、必ず車輌が1周取り囲み
スタッフルーム(図3
オレンジ建物他)前にもずらりと並んで
停車してる光景は不思議で、他の撮影所では見た事がありません。

画3

ウルトラQザ・ムービー星の伝説・特撮ステージ

最大のステージは、NO.5(図2の5・画3)で、何故か他のステージ
よりも壁色が白いのが特徴でした。 90年制作のウルトラQ
ザ・ムービー星の伝説では、NO.5. 8、13が特撮で使用され
NO.5で怪獣薙羅の撮影、8に宇宙船内セット他
13でコンピューターなどの細かい部分の撮影がされていました。
スタッフルームは門から遠い奥の図2オレンジ左にあり
倉庫は5ステ前にありました。

*本編ドラマ部は緑山スタジオで、オープンが無い撮影所なので
ロケット打ち上げなどの空バックは東宝ビルトのオープンを使用しました。
薙羅Sアクターの松岡君とは、その後も地方のウルトラマンショーや
イベントなどで何度か御一緒する事になりました。

東京メディアシティ・TMC☆現在

   図3
1992年国際放映撮影所跡に、完全にTV番組用に産まれ変った
東京メディアシティ(TMC)が誕生現在に至ります。

撮影所の名前
今では、TMCと言う呼び方で通り、逆に正式名称はほとんど
言いません(^^; 砧撮影所では昔は丘の上にあったので
上の撮影所とか、第2と呼んでいましたが、砧に対して
喜多見と言う方もいました。国際放映時代はほとんどの方が
国際と呼んでいたと思います。
*砧は砧村の地名からの名前で本来PCL時代の名前で
東宝東京撮影所が正式ですが、80年代でも正式名を言うより
砧撮影所の方がタクシーなどでも通用する呼び方でした。
喜多見も昔のTMCの住所名で、今は砧丁で、東宝も今は
町名
変更で、砧と言う地名上には在りません。

国際放映(新東宝)撮影所の作品
 
 
鋼鉄の巨人(全9作)
戦艦大和
(藤田進、中山昭二 )
軍神山本元帥と連合艦隊(江川宇礼雄、中山昭二 )
ノンちゃん雲に乗る(原節子、藤田進、大泉滉)
 

チャンピオン太62、忍者部隊月光64、渥美清の泣いてたまるか66
コメットさん(九重祐美子)67、美しきチャレンジャー71
ワイルド7(萬年社と共同)72、コメットさん(大場久美子)78 
魔人ハンターミツルギ73、ケンちゃんシリーズ62~82、
あばれはっちゃくシリーズなどの番組をこの撮影所で制作。

 
レインボーマンは、国際放映の撮影所の施設が背景に
あるスチールが多い。エポックカードより

レインボーマンなど国際放映制作ではなく、東宝制作や
東宝企画のTV番組、クレクレタコラグリーンマンなども
国際のスタジオを使用しているものが、ほとんどです。
*東宝制作でも、東宝はスタジオ化するまでは砧でのTV撮影は
ほとんどさせていない。


太陽にほえろ!(東宝テレビ室*)レインボーマン
傷だらけの天使74、俺たちの朝76、など、俺たちシリーズ
ゆうひが丘の総理大臣78、などのが丘シリーズ
ニュータウン仮分署88

横溝正史のTVシリーズ獄門島
月曜ミステリー劇場TBS、金曜エンタテイメントCX
土曜ワイド劇場ANB、などの2時間ドラマや
鬼平犯科帳H1、などの時代劇も時代劇OPセットで
沢山創られています。

東京ムービーと国際放映

元々特撮とかアニメなどの言葉で、はっきり分けられたモノではなく
主に映画のタイトルなどを、今で言うアニメの方式で書いたり
特撮の手法で合成していたりして、
特技課の中に線画部門があったりと
実写の稲妻などもアニメで、別では無かった面もある一方
森岩雄氏の構想には、特撮とアニメの将来に期待するものが大きく
特撮の他にアニメにも、力を入れたかった事もあって
国際放映は70年代まではアニメ制作会社、
東京ムービー
傘下に置いていました。
その為
コメットさんなどのアニメ部分などを
東京ムービーが手掛けています。

*2005年ムシキング(東京ムービー)は、セイザーXと同時上映。

森岩雄(1899~1979)
横浜産まれの東京下町育ち、アメリカで映画を学んだ為
はやくから特撮やアニメの将来性に着目、京都JOから円谷英二
移籍させた張本人であり、東宝の前身PCLからの
創始者メンバーの1人で砧撮影所所長から
東宝社長になる一方、自ら脚本やプロデュサー職も行った。
今では、映画やTVで当り前のプロデュサーシステムを初導入し
太平洋の鷲より、ピクトリアル・スケッチ*をハリウッドに学び
使用させ、円谷英二に特殊技術課を任せ、特撮ステージやプール
など施設や研究を全面的バックアップをした人物。
*ピクトリアルスケッチ、今のストーリーボードや絵コンテの元祖。

東宝争議 

「戦車も来た、飛行機も来た、来なかったのは軍艦だけ」
終戦後の占領下、産業分野でレッドパージがおこなわれた。

とくに映画、新聞、放送、出版などの情報源になるマスコミ
に対してはキツク、東宝労働組合がレッドパージ反対を
掲げた為、弾圧のために米軍までがのり出した。


S21年戦時中圧迫されていた条件などの解放に
3月31日全日本映画労働組合の共同闘争が起き
他の撮影所は、組合結成、社内民主化、待遇改善、
経営協議会の設置などを承認したものの、東宝は全要求は
承認せず52日間の争議に、日映演を第1撮影所(砧)
第3組合を第2・3撮影所に分配して、撮影所単位での
映画製作をさせるも、3月20日新東宝映画製作所を設立
第3組合員は全員東宝を退社。東宝との対立になる。

*日映演(日本映画演劇労働組合)
*第三組合・東宝従業員組合脱退派


10月16日有楽町日劇にて無料公開スト劇。
12月3日調印直前に会社修正案を拒否。
第三組合、総退社へ大河内伝次郎ら新プロダクション設立

S23年4月30日銀座を映画俳優らがデモ行進。
8月19日アメリカ占領軍も介入戦車7台(今で言う装甲車)も出動
3機の飛行機が上空から偵察

財産権保全仮処分執行で、赤旗を掲げ労組員は退去。
12月20日警察隊1800人が撮影所を包囲、
仮処分執行、組合側は無条件明け渡し。

S25年5月25日解雇通告を受けた日映演分会(約250人)が、
無期限ストに突入。外部各種団体代表も押しかけ
高津撮影所長を監禁。

原因の1つはレッドパージであり、東宝は戦争の特殊需要で
強制上映制度下で生まれた*大量雇用が、会社側には負担で
映画法の規制が無くなり、言論の自由化の波がある中
儲からない文化映画の配給上映を拒否した事などの反発が発端。
*とくに航空教育資料製作所(この撮影所)の人数が多く
戦争が無ければ必要じゃない部所であり、情報的にも
扱いずらい事になってしまう。

航空教育資料製作所

1939年軍委託の飛行理論を、演出、撮影を担当し
戦中第2撮影所は、航空資料製作所として強化
飛行機好きで詳しい、円谷英二が責任者に任命され
軍に協力する事になるが、特に終戦間際の特攻隊の航空機による
敵艦へのダメージなどの研究は、映像と飛行機の好きな
英二さんにはとても苦しく、後悔し続けた出来事であり
、この撮影所の最も悲しい歴史の1つかもしれませんが
3年の公職追放が解除後、当時は大本営発表のラジオニュースで
日本の戦果を聞いていただけの人が殆どの中、自分達の父、息子らが
いかに戦ったのかを、本格復帰1本目の太平洋の鷲
すでに太平洋戦争は、あやまちとして描き、戦前中の
ような国策映画ではなく、記録画像など無い日本の
戦争を極力リアルに描く手法に、特撮の技を使い再現に勤めた。
その中でも、3年の間下請けや、他の発明などをする一方
特撮に研究開発は怠らず、今見ても・・・どう撮影したのか
疑問な凄いカットがあるのは、心や生活に
大打撃を受けていたはずなのに脱帽です。

なお、戦時中の航空教育資料製作所メンバーで活動を
始めた教育映画部は、争議終結後切り離され
東宝教育映画株式会社として独立…4年を経ずして
解散に追い込まれる。


飯島敏宏と国際放映


ウルトラマンの産の親の1人、飯島監督は本来脚本家を目指し
ラジオドラマの脚本(ラジオ東京・現TBSラジオ)から
TBS脚本部に入社…の予定が脚本部が設立されず、テレビの
演出部へ配属、数本の演出後月曜日の男のシノプシスを
通し、3年を超える長期人気番組になるが、自分の企画
番組だが突飛な演出などの為か?1クールで外され、映画部
移籍NAC(国際放映)で、柔道一代に途中参加、青年同心隊では
時代劇のオープンの屋根から落下したエピソードもあり(^^;
泣いてたまるかなどをも国際で撮影、その後円谷プロの仕事へ
*慶應大学放送研究会在籍時に、ラジオドラマの脚本でTBSへ
ぞの後ウルトラマンでも活躍する
藤川桂介は同放送研究会の
後輩で飯島さんの紹介でテレビ界へ入る。
*月曜日の男(1961~1964)KRテレビ(後のTBS)月曜夜9時半放映
探偵小説家JJを、待田京介が演じたアクションドラマの伝説的番組。

撮影所の中でも、最も激動を繰り返し、名称の変更と共に
いろいろな事があった撮影所です。
円谷英二さんと関わりの深い場所の1つでもあります。
失望や対立などの陰の面もあれば、映画、ドラマ共に
多くの名作も産み出してきた撮影所です。

簡単に撮影所の移り変わりを書くと*詳細下記略歴参照。
S14年に東宝第2撮影所として、砧撮影所の側に開設。
S21年東宝争議により分裂、新東宝第1撮影所になる。
S36新東宝倒産後、国際放映撮影所になり
H4に東京メディアシティ(TMC)へと変化をとげています。

 
現在も国際放映(株)なのですが、みなさんTMCと呼びます。
TBS・KTV・フジTVなどのの収録スタジオが入っています。
*国際放映INTERNATIONAL TELEVISION FILMS, INC
は東宝グループの1つです。

ウルトラセブン

23話・明日を捜せ


 明日を捜せで、占い師の安井がダンプに追われ
ポインター(以下P)車載画像に、出てきて引きそうに
なる所が、国際の西門(旧正門)と東門の間の道の
図A(赤い矢印を走行)●地点です。
車載初め右に映る建物は旧NO.3ステージ側面です。

    図A(国際初期)

図B     図C

キリヤマ隊長らが安井を抱きかかえる所に、接近するダンプ
西門から(緑矢印)来て正面から撮影しています。
刃物を投げるカットのみは、Pと同じ赤矢印方向に走行しながら
の撮影で、安井をPに収容するカットのバックは図Aです。

扉は図Bのような形で画1門にも有砧や新東宝に見られる
板組形です。
おそらく順撮りなのでしょう、P収納後、追う体制の車全景の
Pの位置は図Aの前に移動しています(^^;
同カット後に見える図Aの扉が開いてる事からも、別の撮影
の邪魔になる為、Pの位置を本来は、おかしいのですが

変更していると思われます。
その後タクシーがダンプに、姿を変える夜間のカットも
図A
前です。

ダンプとの2台の
追跡カットは図A右陽射で
道が軽い「く」の字なので、撮影所東
側を北上していて
図A水色内に増築工事中の建物が右側に確認出来ます。

03(マルサン)倉庫と言うのが劇中、1つの建物名なのか?
倉庫集地の敷地の総称なのか?疑問はありますが
U警備隊が探索などをしてる所や、隊長が夜間見に来る所に
NO.4ステージ工事資材用エレベーターの鉄筋脚の場所を
使用してる事からも、1倉庫ぽいので、1倉庫としては
旧NO.4ステージ図Aの西(左)です。

西側(夕方のカットでは壁に影)の鉄筋脚を
入れ込んだカットが多いですが、この時期4ステは
工事をしていて、図A4ステ緑部分しか無く
北側は工事中です。
その継ぎ足し部分は東西の壁面南側が
その後ずっと古いままでした。
Pが追跡後、ダンプが停まって居る所も同じ図Aです。


送電柱図Cは、東宝第2からずっと正門からの道の北側にあり
ましたが、新東宝初期までは道に対してはバラつきある
立ち方から、セブン当時のように整列し直ています。

その後図Aピンクライン部分の土地を売却後には
送電柱はほぼ無くなり、各ステージの外壁面に
その役割を譲っています。画3右側面参照

明日を捜せ撮影時期は、ほぼマイティジャックの撮影が
開始されて居る時期と言うのもありますが、英二さん監修の
作品で、中山昭二(キリヤマ隊長)主演の回であればなおさら
このロケ地は協力してもらえた地(撮影所)だと思います。

ダンプなども、撮影所工事中の車輌を借りたようです。


中山昭二さんは、東宝や東映の俳優と言うイメージがある方も
居るようですが、新東宝の映画俳優で
戦艦大和・天皇・皇后と日清戦争など、社を代表する作品から
憲兵とバラバラ死美人・憲兵と幽霊などエログロ路線の大蔵貢
監督作品まで、新東宝で60本(内2本富士映画)もの作品に
クレジット分だけでも出演しています。
東宝は5本のみ、東映でも21本(ニュー東映込み)
新東宝の1:3にすぎません。
 

旧・東宝オープン

第2撮影所時代から~S41頃まで図2の9
銀座をモチーフにした街のオープンセットが
東宝撮影所と同じく
ありました。
主に街中での撮影が困難な(銃撃など)
撮影がされていますが、国際放映(64年)撮影所に
なって以後はTV化映画(ドラマ)の制作体制になり
維持されずに姿を消します。
怪奇大作戦の狂鬼人間の街並みは東宝OPがすでに無く
日活撮影所の銀座OPを借りて撮影しています。

ウルトラQ

マンモスフラワー
警官に瓦礫が当る・運び出しで瓦礫が降る。 
五郎とゴロー
デスクが輸送を決意するシーンなどの後半の街。
育てよ!カメ
ギャングの撃ち合い。
バルンガ
万城目運転する車が停まる信号・由利と博士が
出会う所・救急車が行くシーン

1/8計画
1/8の街・一平や万条目が警官と話す逃げ惑う群集・他

ウルトラマン

遊星から来た兄弟
霧に包まれた街。 黒布のザラブ星人を呼び停める。
噴煙突破せよ
小型B(ホシノ君)・ジエットビートル発進後の毒ガスに街の
人がやられるカット
*遊星から来た兄弟の霧と同じ撮影。

快獣ブースカ

ブースカ誕生 ブースカ出動では
東宝映画で使用する自衛隊の車輌などが
登場したり華をそえています。

マイティジャック

マイティジャックのセット撮影は、美センがいっぱいだったのと
有名な大物俳優起用の為に、国際放映が使用されました。
食事をする所が多いので、スタッフは喜んだそうです。

ウルトラセブンに登場する増田屋も、この撮影所から近く

東宝関係の出前の常連でした。

特撮パートは、祖師谷大蔵の栄スタジオが使用されています。
*戦えマイティジャックは、美セン

撮影所☆歴史略年表

この年表は、東宝>新東宝への分裂と対立が、この撮影所や
映画界の大きな動向なのですが、撮影所からみた円谷英二も
英二さんの人生から見た場合の、この撮影所も大変関係のある
場所なので、大きな作品や歴史的なキー以外は、東宝特殊技術課
を、メインにした年表で、この撮影所を振返ったものです。


1937年(S12)
京都JOから砧へ、森岩雄円谷英二撮影技師を移籍入社で呼ぶ。
キャメラマンの*ボイコットで、特殊技術課課長へ就任。
*トリック撮影(特撮)に理解が浅く破格待遇で招かれた

 円谷に嫉妬したモノ。
*特殊技術の課などは他の撮影所ほかどこにも無い。

1938年(S13)
田園交響楽の中で、スクリーンプロセスを披露。

円谷英二にオプチカルプリンター研究開発の社令
提示。

1939年(S14)
東宝は、映画産業拡大の為として第2撮影所を建設
陸軍航空本部の委託映画飛行理論演出、撮影を円谷英二担当。
完成。

1940年(S15)海軍爆撃隊燃ゆる大空の特撮を担当。
              日本カメラマン協会賞・特殊技術賞受賞

1941年(S16)12月 太平洋戦争開戦

1942年(S17)
第2撮影所に作られた真珠湾の大セットは、マスコミに
とりあげられ多くの有名人・皇族までもが見学に来てさらに
話題が大きくなる。その映画ハワイ・マレー沖海戦大ヒット!
つを
見せられた各撮影所は特撮の研究を勧める。


東宝特技課も、時代とフィルム支給の為、戦意昂揚目的とした
国策映画を制作し軍部に協力
*TVの無い時代、ラジオと共に劇場のニュース映画は重要であり
フィルムは軍の管轄にあった。
*戦意昂揚映画の製作は、英二さんは10代の子まで戦地に送ったと
悔い、戦後はその特技を子供達の夢の為に発揮する。


1944年(S19)
東宝第2撮影所は、航空資料製作所として強化され
円谷英二が責任者に任命。
航空資料製作所
へ入るが、まだ円谷英二との造型作家としての出会いは無い。

1945年(S20)終戦 占領軍摘発前に戦争映画のフィルムを
       撮影所内に埋める。東宝従業員組合結成。

1946年(S21)この年のストにて、新東宝(新東宝映画製作所)
       として分裂、二度のストの後さらに激化…

1947年(S22)
公職追放指定で、森岩雄に続き円谷英二も指定を受け東宝を退社。
円谷特技研究所自宅庭に設立
いが
下請けで、大映、松竹、東横映画などの特撮カットを担当

新東宝の作品も4本手掛ける。
新東宝は、この年
東宝千一夜大阪編などを制作

1948年(S23)
戦後最大の争議、第三次スト「来なかったのは軍艦だけ」
有名な争議は、激化状態が約195日、その後5年間におよぶ。
新東宝映画製作所は株式会社新東宝会社として発足 
東宝は、スターやスタッフが抜け数本の映画しか製作出来ず
旧作や洋画を上映。

1949年(S24) 
東宝は製作を新東宝に全面委託 配給会社に廻ると打診するも
新東宝は自主配給を宣言し東宝の苦汁の選択をも却下されて
3億円の赤字を出す。
黒澤明野良犬を映画芸術協会・新東宝で制作
*助監、本田猪四郎
風前の灯火かに見えた東宝に、歴史が味方しはじめる…

1950年(S25) 
森岩雄がパージ(公職追放)解除され東宝に復帰。
新東宝は強引に自主配給を開始完全独立配給網拡大にのりだす。
争議で制作できない黒澤明は大映羅生門を製作全国公開
*翌年ベネチア国際映画祭で初のグランプリ受賞世界の

 黒澤として評される。 

1951年(S26)
9月 サンフランシスコ講和条約締結(
占領下から独立国へGHQ解体)
森岩雄は、田中友幸らを専属プロデューサーとし
監督には、山本嘉次郎、黒澤明ら、俳優では、三船敏郎、志村喬
などを専属契約、体形を整える。
他社の下請けなどをしていた円谷に東宝の海賊船特撮を依頼。
新東宝は新遊侠伝など森繁久彌の作品を52年までに10本制作

1952年(S27)円谷英二のパージ(公職追放)が解除。
当然、森岩雄は円谷英二を呼び戻し、円谷特技研究所の有川貞昌
真野田陽一、樺島幸男、富岡素敬らをも砧撮影所へ迎えると共に
砧撮影所に600坪の特大特撮用ステージ(現8・9ステ*)を増築。
*8.9ステは現在は2つに分割した番号だが、今でも建物は

つながっていて
サブ室が各8.9に増設され各ステージが400坪ほどになっています。

*この時期円谷英二は松竹からも管理職ポストを提示されていた。
新東宝は、巨匠溝口健二西鶴一代女を公開しベネチア
国際映画祭で国際賞(監督賞)を受賞*特撮は新東宝特殊技術部

*溝口健二、黒澤、小津と並ぶ日本映画3大巨匠、日活、松竹、

大映と移籍する間新東宝で2本を撮る。翌年同祭で銀獅子賞獲得し

計3年連続受賞。
      

1953年(S28)
新東宝特殊技術部の力を発揮した戦艦大和創立以来の大ヒット!
黒澤、円谷の飛車角を欠いていた東宝も反撃!
オールキャストで監督に本多猪四郎を起用した太平洋の鷲
円谷の特技課の腕を存分に発揮させる。
空母飛龍のミニチュアは20mを超え、海での撮影をも駆使し
1億6300万の配収を得る。
本放送開始。

1954年(S29)
新東宝は大和に続けと叛乱潜水艦ろ号未だ浮上せず
日本敗れず、など戦争大作を制作するも興行はふるわず…

一方、東宝は4月に七人の侍の大ヒット!11月には
円谷英二の代表作ゴジラの大ヒットで一機に形勢逆転!
東宝は完全に息を吹きかえす。
日本映画技術賞特殊技術部門受賞!

1955年(S30)
新東宝は人間魚雷回天・松林宗恵を送り出すもふるわず…
大蔵貢が社長就任低予算の早撮で量産 怪談、エログロ路線に

一方東宝はゴジラ成功から透明人間・ゴジラの逆襲・獣人雪男
の3本を送り出す。
東京宝塚劇場米軍接収解除新装開場
*ゴジ逆で特技監督円谷英二と1枚タイトルが掲げられる!
1撮影技師が1枚タイトルなどは世界に類が無く
本で言えば印刷技師が著者と同じように表記されるようなもの。


1956年(S31)
4月ゴジラ海外版が海外で公開、NYブロードウェイの
ロードショー館での初の日本映画の全米公開になり外貨を稼ぐ。
12月空の大怪獣ラドンで、カラー作品での特撮上映
円谷英二・日本映画技術賞受賞


1957年(S32)
5月邦題・怪獣王ゴジラが凱旋興行*海外版ゴジラの邦題
東宝はカラーワイド画面で地球防衛軍制作・1億9300万の高配収
海外にも売れ全米1500館で上映、高いSF作品と評される。
円谷英二は昨年に続き日本映画技術賞を受賞。
東宝本社ビル日比谷に完成。
新東宝は明治天皇と日露戦争が大ヒット
東京現像所入荷

1958年(S33)
大怪獣バラン・米TVからの依頼で制作が途中変更通常上映に。
東宝無法松の一生第19回ベニス国際映画祭グランプリ受賞
新東宝は亡霊怪猫屋敷、憲兵と幽霊エログロの路線へ

1959年(S34)
東宝制作1000本記念日本誕生製作費2億5000万円の
東宝オールスター大作を公開パーサタイルプロセスを初使用。
元祖。
宇宙大戦争公開1億2300万円の配収を記録!
米コロンビア映画が輸出上映。
潜水艦イ-57降伏せず公開*新東宝からの松林宗恵、円谷コンビ。
路線確率。

1960年(S35)
2月砧に特撮専用プール落成式。
勝浦に飛龍の実物大オープンセットを制作、1:1の0戦、97艦攻
99艦爆などに13m級の飛龍、11mの赤城などを制作した大作
太平洋の嵐公開!
松林宗恵監督・円谷英二のコンビで、配収2億5000万円を叩き出す
社長大蔵貢の不祥事が続き解任。 
      
1961年(S36)
月新東宝倒産(5月制作打ち切り)
配給会社として大宝株式会社が9月設立、製作はNACとして
11月に設立し旧・新東宝撮影所に発足
新東宝三分裂
(新東宝、NAC、大宝)直後から東京放送、
東京映画、NHKなどに貸しステージ事業が主体に。


東宝はモスラを公開

1962年(S37)
1月大宝わずか5ヶ月足らずで業務停止に
東宝、東京放送、フジテレビジョンの合弁で制作部門継続
新東宝作品の著作権管理会社を設立。 NACは国際放映に吸収。
TBS
影の地帯でテレビドラマ進出。 

東宝は3月妖星ゴラス8月に東宝30周年記念大作
キングコング対ゴジラを公開
配収3億5000万円公式観客動員数1255万人の記録的大ヒット!
ゴジラ初のカラー作品は海外にも輸出
      

1963年
株式会社 円谷特技プロダクション設立
東宝・オプチカルプリンター導入オックスベリー1900シリーズ

1964年商号を株式会社国際放映に改称


1965年オプチカルプリンター
(米国オクスベリー社製1500シリーズ
東京現像所に導入*東京現像所は東宝グループ

 
1968年 マイティジャック(本編)を国際放映撮影所で撮影。

1978年 西遊記日本テレビ系で、特撮を円谷プロが担当大ヒット

1990年 4月国際放映撮影所で制作(特撮)された
ウルトラQザ・ムービー星の伝説公開

1992年 本社スタジオの全面改築竣工。
    TBS、フジテレビ、関西テレビ放送との共同施設
    東京メディアシティ誕生。

    

    

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